投稿者「即得寺」のアーカイブ

秋の彼岸会を厳修しました。

   9月22日(火)秋の彼岸会を、逮夜は午後2時より、初夜は午後7時30分よりお勤めいたしました。今年の夏は大変暑い日々が続きましたが、「暑さ寒さも彼岸まで」と言われるとおり、ここ数日前からは朝夕はずいぶんしのぎやすく、秋風を感じます。今年の春の彼岸会は新型コロナの感染防止のために縮小して、総代さんだけにお参り頂く法要としました。秋の彼岸会は消毒液を備え付け、マスクをして頂き、ガラス戸を開放して換気に努め、参拝席の間隔を開けてお勤めいたしました。久しぶりに本堂にお参りされた方もあり、新型コロナの不安の中だからこそ仏法のご縁を大切にされていることを感じました。法話は住職より「本願と念仏」と題してお話をさせて頂きました。

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二十七日講・十四日講合同追弔会を厳修しました。

9月14日(月)の午後2時より、当寺の聞法会(講)の追弔会をお勤めいたしました。今回は平成30年度、令和元年度、令和2年7月までにお亡くなりになられた二十七日講と十四日講の講員の方を偲び、合同での追弔会を行いました。当日は講員の皆さんとの記念撮影の後、正信偈のお勤めを行いました。今回は二十七日講の講員5名と十四日講の講員1名の方が対象となり、それぞれのご遺族の方がお参りくださいました。。追弔会をお勤めするたびに思いますことは、安楽集に示されています「前に生まれん者は後を導き、後に生まれん者は前を訪え。」という言葉です。ともにお念仏をいただかれた講員の方々が、先んじて浄土に帰って下さいました。なかなか念仏を申す身とはならない私ですが、亡き人を偲びつつ念仏の声につつまれました。

写真は皆さんと一緒に撮りました記念写真です。

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盂蘭盆会法要をお勤めしました。

8月16日の朝9時より、盂蘭盆会法要をお勤めいたしました。コロナ感染が心配される中、御門徒の皆さんがお参りくださるかを心配していましたが、50人あまりの方々が参加してくださいました。コロナ感染防止のために、マスクを持参して頂き、本堂に入る前にアルコ-ル消毒をお願いしました。本堂での席は写真の通り間隔を開け、後方のガラス戸を開放して換気に努めました。また、万が一のために参加者には御氏名と連絡先を記入して頂きました。住職による「盂蘭盆会について」の法話を行いました。各講、同朋会の聞法会は6月より開始しておりますが、法要としては5ヶ月ぶりとなりました。これからも1回1回の法座を大切に勤めてまいりたいと思います。

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お盆前の大掃除とお磨きを行いました。

  8月8日(土)に藁園の世話方さん、女性世話方さん、総代さんに参加していただき、大掃除を実施しました。当日は8時に集合し、境内と庭を重点に掃除をしていただきました。天候は曇りでしたが、気温がぐんぐんと上昇し、作業をしていると汗が流れてきました。途中に水分補給をかねて休憩し、本堂の中の掃除をしていただきました。最後に恩徳讃を唱和して、記念写真を撮って解散しました。皆様ご苦労様でした。

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引き続いて、8月10日には、お盆前のお磨きを実施しました。女性の聞法会の会員さんや女性世話方さん、総代さんに参加していただきました。今回はコロナの感染防止のためマスク着用でのお磨きとなりました。皆さんの力により、ピカピカになりました。最後に皆さんと共に「正信偈」のお勤めをして終わりました。参加していただきました皆さん、ありがとうございました。

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令和2年8月のご挨拶

「南無」のこころ

今年の7月は大変な状況となりました。九州を中心とした水害が発生し、球磨川流域や筑後川流域の氾濫が発生し、その後は山形県で最上川の氾濫が起こり、大規模な水害が発生しました。また、7月後半からは全国的に新型コロナ感染が再び広がり、都心部だけでなく地方にも感染が拡大しています。水害で被災された方々、コロナ感染でご苦労されている方々に対しまして心からお見舞い申し上げます。

 さて、親鸞聖人がお書きになった「正信偈」では、最初の言葉が『帰命無量寿如来 南無不可思議光』です。「帰命」と「南無」には、ともに「仏に帰依する」という意味があります。お念仏を称えるのも「南無阿弥陀仏」と口にしますが、「南無」という心が大切だと感じます。「南無」というのは、私の思いや考えが砕かれ、ほんとうに頭が下がることを意味します。それは、自分の考えが正しいという立場に立ち、自分の考えた世界を唯一のものと思いこんで、頑張っていた心が砕かれたところに開かれる明るい世界です。仏さまの眼に出遇うことにより、安心と満足が見いだされる世界です。

 私たち人間は、闇の世界に生きているといわれます。何でも見えているし、分かっているつもりでいますが、「本当のこと」「真実」が見えているのかが問われるのです。種々の問題に出会って、どこに本当の問題の根があるか、どこに本当の解決があるかと知恵を絞るのですが、考えるほどいよいよ自己中心性や、無明煩悩の故に流転している自己の姿が明らかになっていきます。

 「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのことみなもって、そら言たわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」

と親鸞聖人が説かれているとおりであります。

 「南無」と手を合わせて、真実の教えに出遇う人となることが願われている私たちです。水害や新型コロナに出遇うことによって、自分の生活を支えていたものは何であったのか。本当に大切なことは何であるかを確かめる機縁となることが願われています。

令和2年7月のご挨拶

もろもろの雑行をなげすてて、弥陀に帰命する

緑の美しい季節となりました。七月を迎え、今年も半年が経過し、時の流れの速さに驚くばかりです。新型コロナウイルス感染はやや落ち着いていると感じますが、皆様いかがお過ごしでしょうか。

 「聖人一流」の御文(五帖目第十通)には、もろもろの雑行をなげすてて、とあります。「雑行」とは迷いや執着のことでしょう。「雑」とはいろいろな物が混じることです。では、何が混じっているのでしょう。毎日の生活では、いろいろな状況の中を行動をしていますが、常に「自分にとっての損得」を判断して行動しているのです。「御文」には、自分の都合ばかり考え、一時も離れることのできない私たちに、「雑行」を棄てなさいと呼びかけて下さっているのです。

雑行を投げ棄てるとは一体どういうことでしょうか。私が自転車に乗っている時は、自動車がとっても邪魔に感じます。しかし、自動車を運転していると、「もう少し道路の端を走ればよいのに」と思い、自転車が邪魔に感じるのです。こんな経験をされた方はおられると思います。乗り物が関係するのではなく、どんな場合でも常に、自分を中心とする心があるからです。

 生活の中では悩み、苦しみが無くなれば、どれほど楽になれるかと考えますが、悩みはつきません。その理由は、悩みを作りだしているのは「自分」だからです。「雑行を投げ棄てる」とは、「自分中心の考えを止める」ということではないのでしょう。

法語には「凡夫であることを忘れないのは、念仏の智慧なのです」と示されています。「雑行を棄てる」とは、阿弥陀様の働きによって、「凡夫」であるという自覚をいただくことでしょう。自分は正しい、偉いと思っていた私が、実は丸ごと「凡夫」であったと気付かせて頂くことでしょう。

 法語には「煩悩を止めることはできない。煩悩と気付くことはできる」とあります。自転車に乗っていても、自動車の運転をしていても、周りを邪魔者にしているのは、自分中心の心だったと気付かなければ、共に生きることはできません。

弥陀に帰命するとはどのようなことでしょうか。生きるということ自体が実は「雑行の連続」ではないでしょうか。しかし思い通りにしたいと思っても、思い通りにはならないのが人生です。思い通りにならないときこそ、「いのち」の事実に立って、自身の人生について意味をたずねるチャンスとなるのでしょう。   

即得寺住職 川那邉 章

前住職17回忌・前々坊守33回忌法要をお勤めしました。

5月24日(日)に即得寺の前住職・前々坊守の法事をお勤めしました。今回の法事を迎えるに当たり、新型コロナウイルス感染が拡大する中で不安を感じながら準備を進めました。当初予定していた法要を縮小してお勤めすることになりました。法中は会焼香の寺院二カ寺と門徒代表として総代様等にお参り頂きました。写真は本堂の様子です。この日を迎えるために心を込めてお荘厳をさせていただきました。

前々坊守(芳枝)は明治37年の生まれで、藁園生まれ藁園育ちです。一宮から住職となる祖父を迎え、即得寺のために坊守として尽くしてくださいました。また父を含めて2男4女という子どもに恵まれ、子育てを通じての大きな喜びに包まれた御生涯であったと思います。昭和63年8月に84歳で命終し、浄土に還られました。

前住職は昭和3年の生まれで、大谷大学卒業後は熱心に布教に努めました。住職として、親鸞聖人のみ教えをご法座を通じて、また自らの生き方を通じて伝え続けて下さいました。そして、お念仏の声が途絶えなかったことが思い起こされます。平成16年6月に76歳で命終し、浄土に還られました。

この度の法事をお勤めすることにより、改めて前住職・前々坊守の願いを受けとめ、親鸞聖人のみ教えを御門徒の皆様とともに聴聞してまいりたいと存じます。

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大掃除を行いました

5月16日(土)に予定していました「五月の大掃除」は前日の深夜より大雨となりました。私は大掃除が実施できるかどうかを案じ、朝5時に目が覚めました。何度も境内に出てみたり、天気予報を調べてみたりしましたが、この日は一日中雨の予報です。朝7時に16日の大掃除を17日に延期することを総代長さんと電話で相談し、参加者の皆さんに連絡をして頂くようにお願いしました。

 直前での日程の変更でどれだけの方が参加して頂けるかが心配でありましたが、17日の午前8時30分に小池の門徒の皆さん、女性世話方の皆さんが次々に顔を見せてくださり、ほとんど欠席されることなく集合してくださいました。

 8時30分の挨拶の後、境内を中心に清掃し、本堂西側の庭の掃除を行いました。10時前に女性世話方さんの接待による冷たいお茶でのどを潤しました。写真は休憩の様子です。

休憩後は皆さんが雑巾を持ち本堂の縁やガラス戸を掃除して頂きました。新型コロナ感染の影響で、なかなか外出ができず、また門徒の皆さん方がお互いに出会う機会が少なくなっていましたが、この大掃除ではマスクをしながら、皆さんとの会話も弾みました。

休日のご予定の多い中で、大掃除に参加して頂きましたご門徒の皆様に心から感謝申し上げます。

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令和2年5月のご挨拶

「ただ念仏のみぞまことにておわします」

さわやかな季節を迎えながらも、新型コロナウイルス感染拡大に胸の痛む日々です。皆様いかがお過ごしでしょうか。

 6歳の孫が尋ねたそうです。「お母さん、コロナウイルスは、なんで人間のところに来たの」と。私どもの娘であるこの母親は、「人間とはどういうものかを知らせるために来たのかもね、と言ったけれど、どう答えたらよかったのかしらね」と電話で問いました。そして「人間の姿をあぶり出すためだとしても、ここまで追い込まれなければ私達は自分の本性に気づけないということかしらね」と続けました。確かに「命」を守り「生活」「経済」「政治」そして「立場」を同時に成り立たせようとすれば矛盾が生じ、自国を守ろうとすれば互いに他国と距離を置かざるを得ず、ややもすると排他的な気持ちを抱いたり、連帯よりも分離、感謝よりも利害が先に立つことも起こります。一人一人の本当の幸せは、世界協調にあるというのに、マスクの奪い合い,エゴによる衝突、感染者に寄り添うどころか差別まで起こりうるのが私達の住む世界です。そして、途上国や貧しい国、社会的弱者が一層深刻な影響を受けることにまで思いが至らない私です。

私達の宗門においては、教区や地区や組の教化事業が次々と中止され、各寺院においては、講や同朋会や仏事の縮小もやむを得ない状況が起こっています。危惧されるのは、人と人の分断、地域社会の崩壊、孤立化、お寺ばなれです。新型コロナ感染が収束した時、私達の世界秩序や、強く豊かな国とそうでない国の格差、地域の状況や人間関係、宗教ばなれや、人間の心の有り様はどのようになっているのでしょうか。私共の生き方、人間性が、根底から問われる気がします。善導大師が「機の深信」をお説き下さっていますが、今回はとことん追い込まれて「自分の都合でしか生きられない罪悪深重のわが姿」を 見せつけられたと思えます。

一方で、献身的に人に尽くし、世の中のために命がけの取組をされる姿にも触れ、私共はどのような命を生きようとしているのだろうかと考えさせられます。

「阿弥陀の世界」は諸仏がともに讃え合い、敬い合う世界であり、その様なあり方が私どもにも願われています。人間の本性がコロナに暴かれつつある今こそ、「ただ念仏のみぞまことにておわします」との親鸞聖人のお言葉に導かれ、いよいよ仏法聴聞させて頂く時だと思います。

   即得寺坊守  川那邉睦美

      

令和2年2月のご挨拶

「光陰矢のごとし」

 皆様はいかがお過ごしですか。今年は例年に比べて暖冬で、新旭でも雪がない冬となっています。テレビや新聞では「新型肺炎」が猛威を振るっており、感染される方が日を追うごとに増加していることです。皆様も予防に心掛けていただきたく存じます。

 さて2月を迎えて感じたことは、「新年を迎えたのが数日前のような気がしているのに、早くも1ケ月が過ぎ去っていた」という事実です。文字通り「光陰矢のごとし」です。広辞苑では「光」は日、「陰」は月をあらわし、月日、歳月、時をあらわすとのことです。振り返ると、1月は何をしていたのだろうと思い返すのですが、ただただ忙しさに追われて、気がつくと2月を迎えていたのです。実は時間の感覚というのは感動がなくなると早く感じるのだそうです。小学生の時は一日が長く感じていたと思います。長く感じるのは同じ時間を過ごしていても、ワクワク、ドキドキという感動があったからだそうです。日常の少しの変化にも、友達との遊びの中にも、ワクワク、ドキドキがあったはずです。しかし、60歳を過ぎた私は、毎日の中でワクワク、ドキドキすることが少なくなり、感動する心が乏しくなってきたと感じるのです。一日一日は新しい時間として頂いているはずですが、ともすれば毎日の生活が同じ事を繰り返しているだけの生活になっているのでしょう。そのため、感動も乏しくなり、ワクワク感を忘れてしまっているのです。その証拠に、昨日食べた食事の内容が思い出せないのです。ワクワクしながら食卓に着き、一つ一つの食材を味わい、感動しているかと問われると、答えられないのです。

 蓮如上人の白骨の御文には「さればいまだ萬歳の人身を受けたりということをきかず。一生すぎやすし」と示されています。また、法語には「何年生きたかではなく、どう生きたかである」とあります。

 今一度、生活を見直すと、孫との生活に「ワクワク、ドキドキ」させられており、お寺を訪れて下さる方との出遇いも「ワクワク、ドキドキ」するものです。何も外に目を向けなくても、「今日私の目が覚めた」ことがすでに「ワクワク、ドキドキ」であるはずです。自分の手が動くことも、家族と話せることも、実は「ワクワク、ドキドキ」であるのです。そのことを忘れているから、時間だけが過ぎ去ってしまい、時の速さに驚くのです。