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湖西合唱祭に出演しました

湖西合唱祭に出演しました。

7月13日(土)に高島市ガリバ-ホ-ルで開催された湖西合唱祭の第2部「高木昭順先生の追悼コンサ-トに出演しました。「即得寺同朋合唱団」は1995年(平成7年)11月に結成された混声四部の合唱団です。初代指揮者として高木昭順先生をお迎えし、「仏教讃歌に出遇い、口ずさみましょう。」という願いをもって活動して参りました。

 現在は奈良龍一先生のご指導の下、いろいろな曲に挑戦しています。当日は元団員の亡き八田満雄さんが作詞され、高木昭順先生が作曲された「星よ~諸仏のまたたき~」と第二恩徳讃を歌いました。会場の音響も素晴らしく、充実した一日となりました。指揮者の奈良先生、出演いただきました団員の皆様 ありがとうございました。IMG_0663IMG_0662IMG_0661IMG_0659

無量寿63号 記事

雑行を棄てて本願に帰す

   親鸞聖人の御生涯のなかで、大切な出来事は沢山ありますが、特に念仏の教えに出遇われ「求道者」としての歩みを始められたことではないでしょうか。教行信証にはその時のことを「然るに愚禿釋の鸞、建仁辛の酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す」と示されてあります。親鸞聖人は九歳の時に出家し、その後二十年間におよぶ比叡山での修行を積まれました。しかし比叡山でのきびしい修行によって苦悩がなくなるかというとそうではなかったのです。二十年間におよぶ比叡山での修行を止め、ついに下山し、法然上人のもとを尋ねられたのです。

 法然上人は「ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべし」と申されたのでした。この法然上人の言葉を親鸞聖人は「雑行を棄てて本願に帰す」と表現されたのでしょう。「雑行」とは比叡山での修行と云うことを示されていますが、同時に自分の思うようにしたいという私たちのあり方が問われているのです。「雑行」とは自分が努力すれば思うようになるはずだという考えです。努力していい結果が出れば、自分の努力を誇り、上手くいかなければ、周りを否定するという思いを起こすのです。

〈雑行を棄てるということ〉

 親鸞聖人は「雑行を棄てる」とおっしゃいました。これは「雑行」を止めるということではありません。毎日の生活では「雑行」だらけの私ですが、「雑行」であると明らかにすることこそが「雑行」を離れる道であると示されたと考えます。常に損得・勝ち負けを基準に物事を判断している私たちの行為そのものが「雑行」であると示して下さっているのです。

 また、親鸞聖人は(歎異抄第二章で)「いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。」と示されています。しかし現実には、条件さえ整えば、自分もいろんなことが出来ると考えている「私」がいるのです。親鸞聖人は「いずれの行もおよびがたき身」であると自身を明らかにしておられるのです。どのような行も徹底することが出来ない身であり、その行によって迷いを越えることが出来ない私ですと述べられたのです。ここに親鸞聖人は人間というものを「煩悩具足」だと捉えられているのです。

〈念仏こそが正行であり、「呼び声」です〉

「雑行」を推し進めると云うことは、私たちの生き方の基準がどこにあるかを問われるということです。世間体を気にして、競争と選別を繰り返し、本当に大切なことを見失っているのではありませんか。

 親鸞聖人は、「雑行を棄てて念仏に帰す。」とはおっしゃらなかったのです。その理由は念仏を通じて、阿弥陀仏の本願に帰ると云うことでしょう。念仏を称えることが同時に、阿弥陀如来からの「呼び声」となって私に届いて下さるのです。念仏は私にとっては、「聞名」となり私自身のあり方を「問う」て下さっているのです。その「問い」は、自分の都合を求めて止まない「私」を明らかにして下さるはたらきなのです。

即得寺住職 川那邉 章

令和元年7月のご挨拶

「自由」

 先日、本屋さんに立ち寄り本棚に目をやると、新書の本の帯に『「考える」ことで人は初めて自由になれる』という言葉を目にしました。この時、私は「自由」とはをどんなことをいうのかという疑問が起こりました。日頃、自由だとか、不自由だとか余り考えたことがなかったため、改めて「自由になれる」という言葉を目にしたとき、戸惑い半分、疑問半分の気持ちになりました。 さて、広辞苑では【自由】について、①心のままであること。思う通り。自在。②他からの拘束・束縛・強制・支配を受けないこと。と示されてあります。 さて、「毎日、自由自在に生活をしていますか」と問われると、「これさえなかったら」「これがあれば」もっと自由になれるはずだと考えている自分がいるのです。「自由」とは一体どのようなことでしょうか。仮に「不自由」だと感じているとするなら、「不自由」を作り出している原因は何かを考えなければなりません。明らかなことは、自分を縛っている何かが存在するということでしょう。広辞苑では他からの拘束や束縛と示されていますが、身体的に自由を奪われるということは勿論ですが、特に精神的に自分を縛っているものは何かを考えてみたいと思います。不自由さを感じる場合、自分の置かれている立場や状況によって束縛感を感じるのではないでしょうか。私たちは、それぞれの立場や役割、他との関係、常識と言われること、世間体などを絶えず意識して生活しているはずです。その時々で、その関係や考えに基づく行動に自由を感じたり不自由を感じたりしているのではないでしょうか。その意味では本当に他からのはたらきかけによって不自由が作り出されると考えていますが、実は不自由を作り出しているのは、私自身の考えではないでしょうか。自分を縛り付けているものが、自分以外にあると考えていましたが、実は自分自身が縛っていることに気付かないことには「真の自由」はないと考えます。また、本当の自由とは、自分の勝手気ままに生きることではなく、「他者と共存」することによって生まれるものではないでしょうか。

 自由を実現するということは自分が感じている「不自由」を取り除くことではないのでしょう。今あるがままの自分が、もうすでに大きなはたらきの中に生かされていることに気付くことではないでしょうか。自分を支えている大きなはたらきに出遇うと、自在に生かされている「いのち」の中に「自由」を実感するのでしょう。のです。皆さんにとっては「自由」とはどんなことだと考えますか。

令和元年6月のご挨拶

先日、本山主催の児童教化の研修会に若院とともに参加しました。その研修会ではゲ-ムや絵本の読み聞かせなど、お寺での「子ども会活動」の運営について学べる研修会でした。即得寺では毎年夏休みには「和讃講」という名称で「子ども会活動」を行っており、何か新しい情報や活動のヒントになることを学びたいと思い参加しました。

 研修会で印象に残ったことは「絵本の読み聞かせ」についてです。最近書店や図書館に行くと沢山の絵本が並べられてますが、なかなか手にとって中を見る機会が少ないと思います。その理由は絵本は子どもが読む本という先入観があるからではないでしょうか。今回の研修会では絵本の世界の広さや深さを改めて学ぶことができました。

 研修会では、絵本を読み聞かせすることにより、①子どもと親しくなる。 ②絵本を通じて子どもが芸術作品に出会える。 ③言葉を通じて世界が広がる。④あたたかい体験として心に残る。 ⑤絵本の世界に入り込む。など絵本の素晴らしさについて学ぶことができました。絵本は全て子ども向けだと思っていましたが、中には大人向けのものもあり、そこから何を感じるかということが大切だと思いました。講師の先生が絵本を紹介しながら、実際に読み聞かせを行って下さいました。お話が始まると物語の世界に引き込まれ、終わったときは心があたたかくなりました。皆さんも、絵本を手にとって読んでみてはどうでしょう。日頃と違った心の世界が広がり、ワクワクするのではないでしょうか。66歳になった私も、この時だけ少年のような心になれるのですから。

 自分の子ども時代や、一緒に読んだ人、ともに過ごした時間がふと蘇ることもあります。ともに聞いた人々と格別な親しみを感じる点は、「聞法」に通じるものかもしれません。

大掃除をしました。

 先月の26日(日)の午前8時から大掃除を行いました。この時期は、季候がよいせいか草が伸び、境内の清掃に追われる季節です。今回の大掃除は安北・新庄・森のご門徒に参加して頂きました。日頃はなかなか清掃が出来なかったところまで、丁寧に掃除をして頂きました。写真は休憩のお茶タイムの様子です。門徒さんからの差し入れもあり、会話も弾みました。本堂前の縁側の拭き掃除を行って頂き、大掃除を終了しました。参加して頂きました門徒の皆様、ご苦労様でした。境内、本堂がきれいになると、私の気持ちもさっぱりして、気持ちがいいです。

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平成31年4月のご挨拶

「新元号」

 4月1日の午前11時30分過ぎに新元号が発表されました。当日のテレビは朝から新元号の報道一色で、私も今か今かと発表を待ちました。テレビで発表を聞いたときは、ピンときませんでしたが、「令和」(れいわ)の文字を何回も目にすると慣れてきて、発表から三日目にして違和感がなくなりました。そういえば、「平成」に変わった時も、今まで呼び慣れていた「昭和」でなくなったことへの違和感を覚えたものでした。

 さて、元号が新しくなることで、何か新しい変化が起こることを誰もが期待します。でも実際には、元号が変わったからといって世の中が変わるわけではありません。新しい元号が決まり、それを口にしたときに、新鮮な感じを持つ自分がいるのでしょう。それは丁度、大晦日が終わり元旦を迎えたときと似ていると感じます。新しい年を迎えたといっても、昨日と大きな変化はないのですが、時間の経過の中に非日常を感じるのでしょう。その意味では、30年ぶりの元号改正は時代の流れを感じさせる出来事であり、同時に私たちが心機一転のチャンスを得る出来事かも知れません。

 即得寺では、毎月一日は「おついたち」と呼んで、早朝より本堂にお参りされる習慣があります。毎月お参りされる方は昔ほど多くはありませんが、毎月の一日は、住職として緊張し、本堂の灯明を点灯しています。この「おついたち参り」も新しい月を迎えられたことへの感謝と、心新たに過ごしたいという思いからお参りされていると感じます。

 東井義雄先生の詩を紹介します。

 「目がさめてみたら」

 目がさめてみたら 生きていた  死なずに 生きていた

生きるための一切の努力をなげすてて      眠りこけていたわたしであったのに

目がさめてみたら 生きていた     劫初以来  一度もなかった  

まっさらな朝のどまんなかに 生きていた

 東井義雄先生の詩を読んでいると、新しい一日、新しい月、新しい時代を賜るということは、感動することだと教えられます。

彼岸前の大掃除をしました

3月16日(土)に藁園以外の世話方様と総代・女性総代の方と一緒にお彼岸前の大掃除を行いました。当日は8時30分より境内を中心に外掃除を行いました。例年より温かい日があったため、この時期ですが小さな草が芽を出しており、草取りが大変でした。以前に法話で伺ったことですが、「同じ虫に害虫と益虫という区別を行い、同じ植物でも花はかわいがり、草を嫌うと私がいます」と話されていました。草の生命力に感心するとともに、人間の勝手さを恥じるばかりです。

休憩後は、本堂の縁の掃除を行いました。手に手にぞうきんを持って、縁側やガラス戸の水拭きです。ぞうきんが汚れた分だけ、床がきれいになっています。最後に皆さん一緒に「恩徳讃」を唱和し、本堂の縁に腰掛け記念写真をパチリ。皆さんいい顔をされています。お疲れ様でした。

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今年度の役員について

今年度の役員さんを紹介いたします。何かとお世話になります。よろしくお願いいたします。(敬称略) 

【総代】(二〇一九年~二〇二一年)

藁 園

新町  桂田 寿和

旭町  大江    悟

〃   西村 孝宗

光町      山川 英夫

栄町  河内 良行

深   溝   伊庭 平和

他所・森  田中 義孝

【女性総代】

桂田 松枝・澤辺 満恵

本庄 廣子・木下八重子

【二〇一九年度世話方】

藁園

新町1組  樽野 茂

         2組  志村 光男

         3組  高橋 陽平

旭町1組  大江 利博

         2組  大江 俊也

         3組  保木 方

         4組  向川 久則

光町1組  桂田 丈治

          2組  葛田 為和

          3組  保木 修

栄町1組  向川 幸男

          2組  北村 義行

深    溝   伊庭 郁夫

             伊庭 久繁

小    池   田中     隆

             田中 健慈

新    庄   山田     護

森         改籐 大海

安    北    向川 通雄

得手に法を聞くとは

浄土真宗の教えは、「聞法に始まり、聞法に終わる」と言われています。そのため、一切の「行」を必要とはしません。大切なことは、「念仏」を通じて毎日の生活の中で「聞法」することです。さて、皆さんは「聞法」というと、どのようなことを考えられるでしょうか。  聞法には三段階があるのはご存じでしょうか。第一段階は、御法話をそのままきちんと受け止めるということです。これがなかなかできないのです。私たちは常に自分のフィルターで変換しながら物事を受け止めているのです。 第二段階は今日聞いたことと、今まで経験してきたこととを重ね合わせるということです。仏法の法話と自分の生活が重ならず、法話だけをいくら聞いても本当に聞いたことにはならないのです。第三段階はしっかりと聴聞した人は、生き方が変わっていくということです。しかし、聞法は聞法、生活は生活と切り離して聞いていると本当の仏縁に出遇ったことにならないのです。

『蓮如上人御一代記聞書』には

一句一言を聴聞するとも、ただ、得手に法をきくなり。ただ、よく聞き、心中のとおり、同行にあい談合すべきことなり

と示されています。これは「法を自分の思いで聞いてはいけない」と戒められたのではなく、「自分の思いでしか聞けない私たちの姿」を気付かせることとして説かれたのでしょう。 「よく聞き、談合する」ということは、自分の聞かせてもらったところを語ることでもあるし、「相手の話をしっかり聞く」ことでもあります。

 聴聞とは、わが身を通して聞いてこそ、本当に聞くべき事に出遇えるのです。


研修に行ってきました

3月7日(木)に前総代・女性総代の方と一緒に研修に行って参りました。行き先は福井県です。午前中に福井市の本向寺様 (福井県福井市市波)に参拝致しました。本向寺様の境内に入ると、本堂のお屋根が大きく張り出し、境内も広々として、歴史の重みを感じました。本向寺様では住職様や法務員様から丁寧な説明がありました。特に蓮如上人時代の吉崎御坊の火災では、本向坊了顕が、火災から教行信証の「証」の巻を護るため、自らのいのちと引き替えに、腹を切り開き「証」の巻きを収めたため焼失を免れたということです。本向坊様のお伝え下さったお心に、ただ南無阿弥陀仏とお念仏せずにはおれません。

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午後からは、福井の名勝「養浩園」を見学致しました。ボランティアガイドの上田さんの温かい説明を聞き、時間を忘れてひとときを過ごしました。養浩園では一年に一回、池の水を抜いて大掃除されるそうですが、偶然にも今回がその時期となり、水のない池の風景に少し残念な思いです。しかし、また水のない池も風情があり、何枚も写真を撮ってきました。

雨混じりの空模様でしたが、充実した内容で日程を終了しました。前総代・女性総代さんと久しぶりにお出会いし、若院と孫も同行させていただいて、楽しい一日を過ごすことができました。

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