投稿者「即得寺」のアーカイブ

春の彼岸会について

春の彼岸会ご案内

 ご門徒の皆様には日々報恩感謝の生活を送られていることと存じます。さて、今年度の彼岸会については新型コロナウイルスによる行事の自粛要請を受け、総代会での協議の結果、内勤めといたしますので、参拝して頂く必要はありません。現時点では、新型コロナウイルスの感染状況がどのように変化するか予想を立てることができません。やむを得ない対応として、お勤めのみの法要とさせて頂きます。勤行後の法話は中止致します。せっかくの聞法の機会であり、予定下さっていた皆様にとって残念なことと思います。

 各御門徒の皆様におかれましては、今回のお彼岸の御中日(3月20日・金)には、それぞれのご家庭の御内仏に灯明を点灯し、ご家族一緒に正信偈のお勤めをして頂きたく念願しております。

 時節柄、ご自愛頂きますよう念願致します。

       記

日時 3月20日(金)春分の日

 午前9時より 

    正信偈のお勤め(内勤め)

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令和2年3月のご挨拶

「いのち」に出遇う

感染症の拡大に思う

     昨年末に中国の武漢で発生した新型肺炎(コロナウイルス)は中国国内だけに留まらず、今や全世界を巻き込んで猛威を振るっている。中国では七万八千人を超え、死者は二千七百人余りに達している。日本でも百五〇人余りの感染が確認されています。(2月26日現在)日を追うごとニュースで伝えられる内容が変化し、深刻な状況が感じ取れます。

 当初は報道が示すとおり、直接中国への渡航されたこと、または中国からの旅行者を受け入れることにより感染されたのだと考えていました。しかし現時点では海外渡航歴の有無にかかわらず感染者が報告され、感染の拡大が予想されます。 今回の感染の最大の難点は、治療薬がないということでしょう。人類の歴史はまさに、病気との闘いであったといえるのではないでしょうか。数々の伝染病の原因を突き止め、薬を開発し、治療法を確立してきた歴史があります。「健康」「命」をそうやって願ってきたと言えます。今回の新型ウイルスに対する治療薬も、一刻も早く開発されることを念じずにはいられません。

医療関係者のご苦労を思う

     今回、国内感染で思うことは、治療に当たっておられる医師や病院関係者、政府や自治体の関係者に敬意を表したいということです。直接治療や業務を担当されておられるご苦労を感じずにはおれません。自らが感染するリスクを負いながら、一生懸命に働いて下さっているお姿を思うと、ただ頭が下がります。今回のことで、どれだけご家族も心配されておられるかと思うと、胸の痛みを感じます。一日も早く、新型肺炎の感染が止まることを願っております。

「いのち」に出遇う

     私たちが病気になれば、病院のベッドで身を委ねなくてはなりません。しかし、病気の身体を引き受けることができないのが我が心です。現実を受け入れることができず、病気に対する不安を感じ、健康は善、病気は悪だと思い込むのです。

 ところが、病気のときも健康なときも、共通の事実があります。それは「いのち」が与えられているということです。「いのち」が与えられていなければ、病気にもなれないということです。健康なときも病気で苦しいときも、生きているという事実が前提になっています。病気であろうが無かろうが、老年であろうが若かろうが、私にとって共通の事実は、「いのち」が与えられて生きているということなのです。その「いのち」をどういただくかということがとても大切な問題であります。

     毎月、お茶所で「歎異抄の会」を開いていますが、二月の会で、ある方が「ご院さん、私は一度自分の心臓を取り出して、お礼が言いたいですわ」と仰いました。考えてみれば、口から愚痴や不満をこぼしながらの日々ですが、心臓も腎臓も文句ひとつ言わず働き続けているのです。私が眠りこけている時も、働き続けているのです。そうした「いのち」に向き合うとき、手を合わさずにはおれないのです。そして、「自分に力で生きているのではなかった」と気付かされたとき、「生死の苦海」が「功徳の大宝海」に転じて下さるのだと思います。

令和2年1月のご挨拶

「新しい年を喜ぶ」

 明けましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いします。新年を迎えると、心があらたまり、何か新鮮な気持ちになります。

 さて、歎異抄の第9章には弟子の唯円坊の言葉として「念仏もうしそうらえども、踊躍歓喜のこころおろそかにそうろうこと」と述べられています。唯円坊は、普段から疑問に思っていたことを親鸞聖人に思い切って質問したのでしょう。その理由は念仏を申しても、自分は何も変わらないし、念仏を喜べない自分がいるという事実からです。この質問に対して親鸞聖人は、「親鸞もこの不審ありつるに、唯円坊おなじこころにてありけり。」と述べられたのです。聖人は「私も疑問に思っていましたが、唯円坊も同じ心だったのですね」とおっしゃったのです。

 「喜ぶ」ということを考えますと、どんな時に喜んだかを思い出すのです。受験や就職、結婚など人生の節目での「喜び」は必ずあると思います。しかし時間が経つとその「喜び」も色あせてしまい、却って愚痴の種になってはいないでしょうか。私の場合は、自分の希望が実現できたときや、自分の思うように事が運んだときは喜べるのですが、逆に自分の思いが実現されず努力が報われなかったときは「喜べない」のです。

 念仏を申して喜ぶということはどのようなことでしょうか。自分の思い通りになっても、ならなくても念仏申すことを喜ぶということでしょう。親鸞聖人は歎異抄で唯円坊に対して「よろこぶべきこころをおさえて、よろこばせざるは煩悩の所為なり」と述べておられます。

 この歎異抄の言葉に出会いますと、私自身が「何を喜びとするか」が問われていると考えます。自分の思いを通すためには、他の人の思いを犠牲にしているということがあります。また、自分が今、いのちを頂き生きていることについて「喜べているか」ということがあります。新しい年を迎えて、「本当に喜ぶべきこと」とは何かを念仏を申しながら尋ねたいと思います。

令和元年11月のご挨拶

身命をかえりみずして

9月末から10月にかけて、関東東北地方は大変な災害が起こりました。一度被災された地域に、再び災害が起こり、改めて自然の厳しさと、人間の無力さを知らされました。被災された方には心からお見舞い申し上げます。

 さて、10月23日(水)に湖西中学1年生の生徒さんの校外学習に「学校サポ-タ-」として参加しました。「ふるさとウォ-ク」と名づけられ、JR北小松駅から湖西中学校までの20kmを歩く校外学習でした。依頼を受けたときは少し不安がありましたが、生徒さんとおしゃべりをしながら楽しい時間を頂きました。歩いているといろいろなことが頭に浮かび、遠く鎌倉時代の人はわらじで歩いたことを思い、『歎異抄』の一節に心が移っていきました。

 親鸞聖人の御在世の頃のことが『歎異抄』には次のように書かれています。「おのおの十余か国のさかいをこえて、身命をかえりみずして、たずねきたらしめたもう御こころざし、ひとえに往生極楽のみちをといきかんがためなり。」と。関東の門弟が信心の問題を問うために、はるばる京都の親鸞聖人を訪ねられたときのことが語られており、常陸国から下総、武蔵、相模、伊豆、駿河、遠江、三河、尾張、伊勢、近江、山城まで関所を越えて20日余りの日程で旅をされたというのです。

 今日では便利な時代となったために、余り苦労せずに移動することができ、地球のどこにでも短時間で行くことができます。しかし、身命をかえりみずして問うべき問いを大切にしているかと言われると、応えられないのです。熱意を持って「問い」に向かわなければ、本当に大事なことが分からないと思います。

 東本願寺の塀には、「生まれた意義と生きる喜びを見つけよう」というスロ-ガンが掲げてあります。

一日研修旅行に行ってきました

9月29日(日)に一日研修旅行を実施しました。昨年は御遠忌の準備のため実施することができませんでしたので、2年ぶりの研修旅行となりました。天候にも恵まれ、実りのある研修となりました。まず、京都日野の法界寺様を参拝しました。親鸞聖人の生誕の地であり、金色に輝く「阿弥陀如来様」に手をあわさせていただきました。

次に世界遺産にも指定されています「宇治の平等院」へ参拝しました。伽藍も整って、境内も整備され、平安時代を思い浮かべながら散策をしました。平等院のミュ-ジアムには、沢山の宝物が展示されており、仏像や菩薩像を間近に見ることができました。平安時代の彫刻の素晴らしさを感じることができました。

午後からは宇治茶の工房で、「石臼を使っての抹茶作り」の体験を行いました。石臼を回すと、きれいな色の抹茶が出てきて、お茶のよい香りが漂いました。挽きおわった抹茶を、その場で点てて、おいしくいただきました。挽き立ての味は、さわやかで、香りが豊かで、少し甘みを感じました。

宇治の平等院の参道は日曜日ということもあって、大変賑やかでした。自由時間に食べた抹茶アイスもとてもおいしかったです。

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令和元年9月のご挨拶

「実りの秋」

 朝夕はずいぶんと気温が下がり、秋風を感じる季節になりました。皆さんのお住まいの地域ではお変わりはありませんか。先日からの大雨による災害を受けられた方に、心からお見舞いを申し上げます。

 さて、新旭町の田園地帯を散歩していると、早くも稲の刈り取りが行われています。太陽の光をいっぱい浴びて黄金色に実った稲穂は、その重みで頭を下げているのです。「実るほど頭を垂れる稲穂かな」という句を実感します。

 また、相田みつをさんの詩には

  「どんな雑草でも 時期がくれば 

   だまって 自分の花を咲かせ  自分の実をつける」

という言葉があります。これを読んだときに感じることは、どんな雑草でも花を咲かせ実をつけるのなら、一体自分はどんな花を咲かせ、実をつければいいのかということです。皆さんはどのように感じられますか。自分の花を咲かせるということはどんなことだろう。また、自分の実をつけるというけれども、人生における「結実」とは何を指すのだろうと考えるのです。六十歳半ばの私にとっては、この詩が問いかけてくることになかなか応えられないでいます。

 先日、因果について講義を受ける機会がありました。講師の先生は、因果の関係について「種を蒔いたからといって必ず実がなるとは限らない。しかし、実がなっているということは、必ず種が蒔かれたということである」と述べられました。

 いよいよ「実りの秋」です。果物やお米、野菜がおいしい季節になります。実がなるということは、種を蒔き世話をされる人がいるということです。ブドウやナシを頂くことができるということは、遠方より送って下さる方がいるということです。「因」を尋ねてみれば、本当に有難いことばかりであるのです。結果だけに目を奪われると、損得しか見えなります。私も仏法のご縁を頂き、実り多き日々を送らせて頂きたいと感じます。

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令和元年8月のご挨拶

「仲よくする」

 日本列島が燃えています。連日の猛暑に皆様はいかがお過ごしですか。あまりの暑さに体調など崩されていませんか。くれぐれもご自愛下さいますよう念じております。

 さて、即得寺では例年通り7月20日~26日まで「和讃講」(子ども会)を実施しました。朝7時45分から9時までの時間ですが、小学生が本堂に集まり、正信偈の練習、歌やゲ-ム、夏の宿題に取り組んでいます。「和讃講」ではまず始めに「ちかい」をみんなで唱和します。内容は3つで、三帰依をやさしく子ども向けに作られたものです。内容は次の通りです。

 ・わたくしたちは ほとけの子どもになります。

 ・わたくしたちは 正しいおしえをききます。

 ・わたくしたちは みんな仲よくいたします。 

 この「ちかい」を参加した小学生とともに毎日、唱和しています。昨年までは疑問に思わなかったことですが、ふと、私自身が「みんな仲よくいたします」と声に出すと、「仲よくする」とはどうすることかと疑問が湧いてきたのです。皆さんはどのように感じられますか。

 仲よくしたいと思っていても、本当に仲よく出来ているかを問われると、出来ていない現実があります。本当は仲よくしたいと思っていても、何か心の隔たりを感じるのです。その時に思うことは、「相手がもう少し私のことを理解してくれれば」「あの人がもう少し協力してくれれば」と仲よく出来ない理由は相手にあると考えるのです。しかし、仏教では「怨憎会苦」という言葉があり、仲よく出来ない原因は、私自身が人を嫌うという心があるからだと示しているのです。

 しかし、「みんな仲よくいたします」ということは、嫌わないということでは解決しないのです。老若男女と言いますが、年齢や性別、職業などを越えて全ての人が仲よくしたいという願いを持っていても、なかなか実現できないのです。仲よくしたいという心には、具体的には「人を大切にしたい」ということがあるはずです。自分と同じ「いのち」を生きていることの大切さに気付くことでしょう。親だから大切なのですが、親であるまえに一人の人間として大切だと考えているか。子どもだから大切には違いないが、一人の人間として接しているかが問われるのでしょう。

 みんな仲よくしてほしいというこの「ちかいのことば」は、仏さまから私たちに向けられた「願い」なのです。この「願い」をしっかりと受け止めたいです。

お磨きをしました。

お磨きをしました。

  8月8日の朝8時より、お盆前のお磨きをしました。参加して頂いた方は、即得寺の聞法会の皆さんです。十四日講・光華法話会、総代の方々30名が参加して下さいました。今回のお磨きは昨年の10月の御遠忌以来ですので、例年より汚れており、磨く手に力が入りました。茶所と本堂との2カ所に分かれ、和やかなおしゃべりとともに、仏具がきれいになりました。

お磨き後は、本堂での「正信偈」のお勤めと法話の後に、冷たく冷やした「プリン」と「アイスコ-ヒ-」で疲れをとりました。皆さんの顔が明るくて、仏具も心もピカピカになりました。早朝よりご参加頂きありがとうございました。

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湖西合唱祭に出演しました

湖西合唱祭に出演しました。

7月13日(土)に高島市ガリバ-ホ-ルで開催された湖西合唱祭の第2部「高木昭順先生の追悼コンサ-トに出演しました。「即得寺同朋合唱団」は1995年(平成7年)11月に結成された混声四部の合唱団です。初代指揮者として高木昭順先生をお迎えし、「仏教讃歌に出遇い、口ずさみましょう。」という願いをもって活動して参りました。

 現在は奈良龍一先生のご指導の下、いろいろな曲に挑戦しています。当日は元団員の亡き八田満雄さんが作詞され、高木昭順先生が作曲された「星よ~諸仏のまたたき~」と第二恩徳讃を歌いました。会場の音響も素晴らしく、充実した一日となりました。指揮者の奈良先生、出演いただきました団員の皆様 ありがとうございました。IMG_0663IMG_0662IMG_0661IMG_0659

無量寿63号 記事

雑行を棄てて本願に帰す

   親鸞聖人の御生涯のなかで、大切な出来事は沢山ありますが、特に念仏の教えに出遇われ「求道者」としての歩みを始められたことではないでしょうか。教行信証にはその時のことを「然るに愚禿釋の鸞、建仁辛の酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す」と示されてあります。親鸞聖人は九歳の時に出家し、その後二十年間におよぶ比叡山での修行を積まれました。しかし比叡山でのきびしい修行によって苦悩がなくなるかというとそうではなかったのです。二十年間におよぶ比叡山での修行を止め、ついに下山し、法然上人のもとを尋ねられたのです。

 法然上人は「ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべし」と申されたのでした。この法然上人の言葉を親鸞聖人は「雑行を棄てて本願に帰す」と表現されたのでしょう。「雑行」とは比叡山での修行と云うことを示されていますが、同時に自分の思うようにしたいという私たちのあり方が問われているのです。「雑行」とは自分が努力すれば思うようになるはずだという考えです。努力していい結果が出れば、自分の努力を誇り、上手くいかなければ、周りを否定するという思いを起こすのです。

〈雑行を棄てるということ〉

 親鸞聖人は「雑行を棄てる」とおっしゃいました。これは「雑行」を止めるということではありません。毎日の生活では「雑行」だらけの私ですが、「雑行」であると明らかにすることこそが「雑行」を離れる道であると示されたと考えます。常に損得・勝ち負けを基準に物事を判断している私たちの行為そのものが「雑行」であると示して下さっているのです。

 また、親鸞聖人は(歎異抄第二章で)「いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。」と示されています。しかし現実には、条件さえ整えば、自分もいろんなことが出来ると考えている「私」がいるのです。親鸞聖人は「いずれの行もおよびがたき身」であると自身を明らかにしておられるのです。どのような行も徹底することが出来ない身であり、その行によって迷いを越えることが出来ない私ですと述べられたのです。ここに親鸞聖人は人間というものを「煩悩具足」だと捉えられているのです。

〈念仏こそが正行であり、「呼び声」です〉

「雑行」を推し進めると云うことは、私たちの生き方の基準がどこにあるかを問われるということです。世間体を気にして、競争と選別を繰り返し、本当に大切なことを見失っているのではありませんか。

 親鸞聖人は、「雑行を棄てて念仏に帰す。」とはおっしゃらなかったのです。その理由は念仏を通じて、阿弥陀仏の本願に帰ると云うことでしょう。念仏を称えることが同時に、阿弥陀如来からの「呼び声」となって私に届いて下さるのです。念仏は私にとっては、「聞名」となり私自身のあり方を「問う」て下さっているのです。その「問い」は、自分の都合を求めて止まない「私」を明らかにして下さるはたらきなのです。

即得寺住職 川那邉 章