今月のご挨拶」カテゴリーアーカイブ

令和4年11月のご挨拶

「預かりもの・賜りもの」

 先日、久しぶりに岐阜へ嫁いでいる二女(美法)と出会うことができました。コロナの関係で、なかなか出会うことができませんでした。顔を見ると元気そうで安心し、会話も弾みました。二女(美法)は子育て真っ最中で、小学三年生の男の子と四歳の保育園児(女の子)に奮闘しています。子どもとの何気ない会話の中に、大きな発見や喜びがあるとのことです。

 こんなことを聞かせてくれました。小学三年生の男の子が、「うちはお寺だから本堂や外の掃除をしなければならないの」と。それにたいして二女(美法)は「お寺というのは、門徒の皆さんからお預かりしているから、いつでもきれいにしておくのよ。」と答えたそうです。

 その時、二女は「預かるというけれど、本当はすべて預かりものばかりだなぁと感じるのや。子どもも自分で産んだから、自分の思い通りにしようと思うけど、仏さまからの預かりものなんやなぁと思う。この二人の子どもを仏さまが、私たち夫婦に対して預けてくださったのだと思う。だからこそ愛情をかけて育てないと。」と私に対して呟いてくれました。

 この二女の言葉を聞いて、私は生活そのものが「預かりもの」であると知らされたのです。子どもだけではなく、すべての生活が仏さまからの「預かりもの」であり「賜りもの」であるのです。そのことを忘れ、すべてが「自分のもの」であり、自分の思い通りになると勘違いしているのが私たちではないでしょうか。

 預かっている以上は、「こんな預かり方でいいのだろうか」「もっとできることはないだろうか」と預かっている身としての自覚が常に促されます。また、「賜りもの」としての生活を見直したときは、「本当に私は送り主の心を大切にできているだろうか」「頂いていることを当たり前にしていないだろうか」と問われるのです。

 『安心決定鈔』には

 「されば、いずるいき、いるいきも、仏の功徳をはなるる時分なけれ ば、みな南無阿弥陀仏の体なり。」と説かれています。

 私の身体も全て、頂きものであります。一息一息が賜ったものであり、一息一息がお念仏であることが知らされるのです。

令和4年10月のご挨拶

「浄土」

 先月の台風での被害はどうでしたでしょうか。お寺では本堂の一部が風で少し被害を受けました。

 さて、皆さん「浄土」とはどのようなことだと考えられますか。世界に目を移すと、2月から始まったロシアとウクライナとの戦争は、この世の地獄ではないでしょうか。本当は両国の人々は、一日も早く戦争を終えてほしい。平和な時を取り戻したい、互いに仲良くしたいと思っているはずなのです。

 池田勇諦先生は著書「浄土真宗入門」(東本願寺出版)で次のように示されています。「私は「浄土真宗」の四文字を次のように受けとめています。すなわち、「真宗」は「問い」であり、「浄土」は「答え」であると。・・・略・・・そして真宗とは、人生の真実の宗は何か、つまり私たちは何を根拠に生き死にするのかという、人間にとって根本的な問いかけであります。この根本的な問いに、阿弥陀仏の本願は「浄土」という二文字をもって応答されている。そのことを明らかにされたのが親鸞聖人でした。」

 池田先生が述べておられるように、本当の問いがないところには、「浄土」は存在しないと思います。そのため、「浄土はどんなところか」「浄土は本当にあるのか」という質問を受けますが、浄土があるかないかを論じるより、浄土を必要とするかどうかが問われると考えます。

 阿弥陀の浄土は「願いの世界」です。仏が私たち人間に何を願いとされているか。その願いに出遇う場所が「浄土」ではないでしょうか。阿弥陀仏の願いの第1番目は、「たとえ私が仏を得るとしても、私の国に地獄、餓鬼、畜生があるならば、私はさとりをとりません」とあります。これは、地獄、餓鬼、畜生は痛ましいことであると示されています。しかし私たち人間のあり方を考えると、戦争や争いを行い、自己中心的な考えを止められないのが現状です。

 「浄土」とは私たちが人間らしく生きることを成り立たせる場所なのです。本来の私自身を成り立たせるような場が「浄土」であり、「浄土」を見いだすことが、一人ひとりの人生(いのち)がいちばん輝く世界だと感じます。

 池田先生は、「浄土へ往生すると言うと、「いつか」「どこか」いいところへ行けると考えがちです。しかし浄土が私たち自身のこととして明らかになってくると、「いつか」「どこか」ではなく、「いま」がいちばん適切なときであり、「ここ」がいちばん大事なところであることが見えてきます。」と述べられています。

 「いま」「ここ」をどのような場としているか、本当に大事な場となっているかが、問われているのでしょう。

令和4年9月のご挨拶

「基準」

朝夕は幾分涼しさを感じる季節となりました。皆様はいかがお過ごしのことでしょうか。

 先日、中村石材さんに境内の灯籠の修復をお願いしました。私(住職)がこのお寺に入ったときから気になっていたのですが、二基ある灯籠の北側が地盤の関係で沈んでおり、少し北側に傾いていました。今回の修復は江戸時代以来のことではないかと思っています。

 さて、8月22日より石材店の職人さんに入っていただき、工事をしていただきました。その時感じたことは、職人さんというのはすごいなぁということです。北側・南側の二基の灯籠を測量し、黄色の工事用の糸を何本か張り、現在の灯籠の位置を正確に記録されていました。その結果、北側の灯籠は南側の灯籠に対して東側に7cmずれていることが判明しました。40年間見ている灯籠は傾いていることは分かっていましたが、位置そのものがずれているとは考えもしませんでした。

 傾きは、長年の地盤の変化によるものですが、そもそも左右が対称に設置されていると考えていた位置が異なっているとは疑いもしませんでした。測量を行い、参道からの距離や本堂を起点とした距離を割り出していただくと、確かにずれているのです。

 基準とは面白いもので、左右の灯籠がずれていると考えたとき、北側を基準にすれば南側がずれていることになります。南側を基準にすればその逆が言えます。本堂を基準にすれば前後左右についての誤差が割り出されます。今回は左右の灯籠の高さも一致するように修復していただきました。

 私達の生活に於いても、基準は大切なものです。何を基準にして生活をしているか。左右の灯籠だけを比べているときには、どちらかを基準にした場合はもう一方が異なっていることになります。工事用の黄色の糸を張り渡すと、なるほど位置がずれていたのかと納得するのです。

 仏法を頂くということは、私が立っている位置を確認するということではないでしょうか。自分はいつだって正しいと思い込んでいたことが、お念仏という黄色い工事用の糸を張り巡らせると、突出していたのは私であったと気付かされるのです。

clip_image002clip_image004

     (修復前)         (修復後)

令和4年8月のご挨拶

「本願の正機」

     皆様お変わりありませんか。私、坊守は5月より思いがけない入院となり、日頃の境遇の有り難さや、これまでの恵まれたお出遇いの喜びというものをいよいよ深く思い、感謝しているところです。

 私の病室は3階にあり、近くには三井寺が見え、窓のすぐ近くにも、いくつかのお寺の屋根が広がっています。高い位置からなので、境内や駐車場、お墓など敷地内がよくわかるののですが、おそらく道路からは、ぐるりと塀が巡らされているので見えにくいことと思います。お参りやご用の方が訪れてこそのお寺となっています。「門をくぐる」というのは、実はよほどのご縁なのかもしれませんね。私共は真宗門徒と呼ばれますが、門のどこに立っているのでしょうか。四衢亮先生が、よく「浄土の門が開かれる」と表現されますが、それはどんなことなのかと思っていました。6月の同朋大会で、ご講師としてお越しくださった折り、住職からそのことについて質問してもらうことができました。

 先生がお応えくださったには、「既に浄土の門は開かれているのだ。間に合わないことが起こって、気付く、その時が『本願の正機』なのだ。」ということ。「また我々は、浄土の門に入ることばかりを考えているが、門は出入り自由なのである。再び娑婆に出て、聞法の仲間を誘うことができるのが、門なのである。」ということ。私のややこしいはからいが「真実」や「既に開かれている門」を見えにくくしていたことを知らされました。

 今、ここで、このままの私に開かれ迎えられていることを思い、嬉しく感じるとともに、「私の役割」ということを考えさせられました。

〈一緒に聞いていきませんか〉

 録音された先生のお話から、更に胸を打たれた親鸞聖人のお姿。それは、ご自分を殺そうとした人をも同朋として「一緒に聞いていきませんか」と歩みをともにされたことです。山伏弁円の「意に添わない者は殺してしまいたい。」という罪業性を、ご自分の中にも見い出され、尽きることのない課題を聞き続けられたことであります。力によって思い通りにしようとした弁円が、聖人の温かさに触れ、自分の行いを悔い明法房という名をいただき、弟子としてともに歩まれた事実に感動せずにはいられません。

 四衢先生のお話の中で、「浄土をどうとらえるか」ということについても、考えさせられました。私共にとって最も苦しいのは「孤独」。同伴する者なし、という状態です。どんな私をも見捨てることなく、「一緒に聞いていきませんか」と、呼びかけてくださるお声、その歩みを開いてくださるのが「南無阿弥陀仏」であり、その世界こそがお浄土であると思います。今、ここで、このように過ごす私も、また、どのような状態になろうと、決して見捨てられることのない浄土の世界にあること、それはとても大きな喜びです。

即得寺 坊守  川那邉睦美

令和4年7月のご挨拶

 「往生」とは「浄土に生まれる」こと

     緑の美しい季節となりました。七月を迎え、今年も半年が経過し、時の流れの速さに驚くばかりです。新型コロナウイルス感染はやや落ち着いていると感じますが、皆様いかがお過ごしでしょうか。今回は池田勇諦先生の著書「浄土真宗入門」に示されている「往生」について紹介します。

 さて、私たちは普段、「往生」という言葉をどんな意味で使っているでしょうか。まず“死ぬこと”。そうですね。「あの方は九十歳で大往生だった」などと申します。それから“どうしようもなくなって行き詰まる事”。「雨が降ってきたのに傘がなくて往生した」などと言います。特に「往生」が“死ぬこと”と理解されているのは、「浄土」の場合と同じように、“往生とは死んでから来世において浄土へ産まれることだ”という考えが一般化しているからでしょう。

 教えから言えば、「往生」とは「死ぬこと」ではなく、「浄土に生まれること」を意味します。だから、「浄土」と言えば、そこに「往生」ということが離れないのです。

 しかし、「浄土に生まれる」とは具体的にはいったいどういうことなのか。私たちは、一歩踏み込んで、そのことを教えに問わねばなりません。それは何よりも私自身、長年にわたって引きずってきた問題です。自分にとって「浄土に生まれる」ことは、いかなる体験なのか。よりはっきり言えば、「浄土に生まれる」というときに、どんな「生まれかた」をするのか、という問題なのです。

    前章で述べたことですが、浄土とは私たちが依って立つ「真の国土」としてはたらく阿弥陀の本願のかたちでした。私たちが阿弥陀仏の大悲の本願に目覚め、真実の信心をいただくとき、その国土はすでに私たちを支える「真の大地」として私たちのところへ到来してくださっているのです。ですから、その浄土に往生するとは、浄土の功徳を賜って、この世での生をせいいっぱい尽くしていく歩みの始まりであり、新しい生活の始まりと言えるものなのです。 親鸞聖人はこのことを、『仏説無量寿経』によって、「すなわち往生を得て、不退転に住す」と了解されていまを得るとは、もはや一歩も後戻りすることのない大道に立つことなのだと、きっぱり言い切っておられるのです。(以上)

 浄土に生まれるとは、今まで自分中心でしか考えていなかった私が、そのあり方を問われ、気付かされたと言うことでしょう。浄土に触れた時、自分の汚れに気付くのです。

令和4年5月のご挨拶

不安の心が、念仏と出遇う力です

   私たちの不安感情は一体どこから来るのでしょうか。たとえば、あらゆる生物は必ず死ぬと、分かりきっていますが、いざ自分が死ぬとなるとそれを受け入れることができないのが我が身ではないでしょうか。いつ死ぬのかはっきりしないから不安を感じますが、逆に死が具体的に明確になれば恐怖心に包まれてしまうのではないでしょうか。

 岸見一郎著『不安の哲学』には、「不安とは、(未知、制御不能なものをコントロールしようとする時に起こす心の動き)である。」と記されてあります。また、不安はただ主観的なもので、気持ちの持ちようで解消できるようなものかといえばそうではありません。『不安の哲学』では、「哲学者アドラーは不安の原因ではなく、その目的が何かを考えます。アドラーは、仕事や対人関係のように生きていくにあたって避けることができない課題を『人生の課題』といい、不安はこの人生の課題から逃れるために作り出される感情であるといいます。言い換えると、不安の目的は人生の課題から逃れることです。」と記されています。

 では、親鸞聖人・蓮如上人から受け継いできた真宗門徒はどのように不安と向き合ってきたのでしょうか。それは、一言でいえば「念仏を申して生きる」ということです。

 大谷大学学長の一楽真先生は「念仏を申して生きると言うことは、決してお仏壇の前だけで「南無阿弥陀仏」と言うことではありません。常に「阿弥陀」「無量」という、比べることのできない世界を感じながら毎日の生活を送ると言うことではないでしょうか。念仏をいただく生活とはどのようなことでしょう。

 一つには「自己中心からの解放」です。自分のものの見方、それを絶対化するのではなく、誰にでもそれぞれの言い分、考え、立場があります。このことを本当に認め合って行くような生き方が求められているのです。念仏に出遇うことによって、自己中心であった自分に気付けるのです。」と述べておられます。さらに、

 「二つ目には、「問題を見抜く眼の獲得」です。日頃は自分中心に物事を見ていますから、どうしても自分にとって都合の良いことを求めます。また、自分の都合の悪いことを排除します。しかし、この心が実はお互いに争いを引き起こす根本ではないでしょうか。都合の悪いものを排除するというその心が、実はこの世を地獄にしていくんだと気付かされることが重要であり、同時に自分の愚かさを見つめて生きるということではないでしょうか。」と示されています。

 不安の反対語は安心です。人間関係において、互いに認め合い、尊重し合える関係こそが安心できる関係ではないでしょうか。

 また、自己中心の物の見方が不安を作り出しているのではないでしょうか。都合の悪いことこそ、本当に大切なことを知らして下さる力だと考えます。

 念仏を申せば、おかげが感じられ、いのちのつながりが見えてくるのです。

        (住職)

令和4年3月のご挨拶

噛むとはしるとも、呑むとしらすな

   『蓮如上人御一代聞書』(第80通)に、古いことわざの「噛むとはしるとも、呑むとしらすな」ということについて述べられています。その内容は食べ物の甘い辛いをよく噛みしめて味わうことを教え、味わいもせずにぐいっと呑み込むことは教えるなということです。

 小学校の給食でも、「よく噛んで食べましょう」という指導が行われています。味覚は私たちの舌にある味蕾(みらい)という器官で味を感じ取り、脳で「甘い」「苦い」という味を感じます。ひとつの味蕾の中には50~100個の味を感知する味(み)細胞があり、酸味、塩味、苦味、旨味、甘味のそれぞれに対応しているそうです。本当に味わって食べると、同じ「甘い」でも、食べ物により甘さは異なり、また、「苦み」や「酸味」なども味の深さを引き出す重要な要素だといえます。

 よく噛んで食べるとは、健康上のことだけでなく、口に運んだ食物について、その中にあるいろいろな味を楽しむことが教えられているのでしょう。噛むだけでなく、調理されたそれぞれの品をゆっくり眺めることにより、その食材の産地や調理方法、作った人についても想像力や感謝の心を膨らますことができ、今まで以上に食事を喜ぶことができるのでしょう。

 蓮如上人が「呑むとしらすな」と示されたのは、つまり、物事について鵜呑みにせず、多面的に考える視点を持つことこそが大切だと教えられたのです。今日、情報化社会の中では、その情報を「咀嚼(そしゃく)」することなく、呑み込んでいることが多いのではないでしょうか。人間関係についても、人それぞれの味があり、その味を味わって付き合えれば、関係を楽しむことができると思います。

 人生は、年を重ねるほどに味わいが深くなるものでしょう。人生を呑み込まずに、聞法生活の中で一日一日、ゆっくり噛んで味わいたいものです。  (住職)

令和4年2月のご挨拶

「鬼退治」

    昨年の暮れに面白いテレビ番組があったので録画しておき、先日ようやく視聴することができました。番組の名前は「昔話法廷」です。ご覧になった方もおられると思いますが、昔話で登場する主人公を法廷で裁くという内容です。桃太郎やカチカチ山のウサギなど昔話の主人公で、誰でもが知っている登場人物(動物?)です。私たちが知っている多くは主人公が敵討ちを行い、お爺さんや村人を助けるというスト-リ-になっています。その登場人物の善悪を疑ったことなどなく、常に「めでたし、めでたし」で物語は終わるものだと思っていました。

しかしテレビ番組の「昔話法廷」ではなんと桃太郎が裁かれるのです。その罪名は、鬼に対しての殺人傷害罪と鬼の財宝を奪った強盗罪です。この番組を視聴して、桃太郎・村人の立場でしかこの物語を読んでいなかった自分に気づかされました。「鬼」はやっつけられて当然だという先入観があり、鬼の財宝は桃太郎が奪って当然だと思っていたのです。「桃太郎や村人」から鬼を見れば、鬼は自分たちにとって「悪」そのものであったのです。一方「鬼たち」から桃太郎や村人を見れば、自分たち鬼を差別し、自分たちの存在を否定する「悪」でしかないのです。(この番組では桃太郎自身も出生における差別に苦しみ、人として葛藤する姿が描かれており、考えさせられました。)

 仏教では、私たちには根本煩悩としての自我意識が存在し、常に善悪を作り出し判断していると示されています。自我意識はいつでも自分は世間から「善い人、善人」と思われ優位に立ちたいと考え、逆に「善くない人、悪人」と思われれば世間から排除され居場所がなくなると恐れるのです。また、自分だけではなく、他の人に対しても「善悪」を判断します。その基準はどこまでも「自我意識」を中心にするため、自分の都合によるのです。そのため、同じ人でも自分の都合次第では善人になったり悪人になったりするのです。

曇鸞大師は『浄土論註』において「邪見憍慢の悪衆生」ということを問題にしておられます。邪見憍慢とは、自我意識に立って物事を「分別」し、それが正しいと思い込んでいる私たちの姿を問題にされた表現です。善悪、損得、老若、長短、などを「分別」し、善いと思うこと(人)は取り、善くないと思うこと(人)は捨てていく生活を続けていくことに何の疑問も感じていないことに気づかされます。

    桃太郎が鬼退治という方法をとるのではなく、鬼と共生する世界を作ることが本当は願われていたのではないでしょうか。「鬼」を作り出すのも、実は私共の自我意識だったと気づかされるばかりです。

令和4年1月のご挨拶

「コロナ禍の中で」

 明けましておめでとうございます。昨年は皆様にとってどのような一年でしたか。振り返って見ると、全ての方に当てはまるのが新型コロナの感染が拡大する中で、ワクチンの接種や外出の自粛をする日々であったのではないでしょうか。解決策がないまま、さらに変異株のオミクロン株の感染者が少しずつ増加しています。

親鸞聖人や蓮如上人の時代も疫病や飢饉、災害により多くの方が亡くなったことが手紙に記されています。蓮如上人の疫癘(えきれい)の御文には「当時このごろ、ことのほか疫癘とてひと死去す。」〈近頃、特に疫病によって多くの人びとが亡くなっています。〉とあります。そして、この状況について次のように述べておられます。「これさらに疫癘によりてはじめて死するにはあらず。生まれはじめしよりしてさだまれる定業なり。さのみふかくおどろくまじきことなり」〈しかし、これは、疫病によってはじめて亡くなったのではありません。それは、生まれたときから定まっている「定業」によるのです。ですから、実はそれほどまでに驚くべきことではないのです〉と説いて下さっています。この蓮如上人のお言葉を受け止めると、「生まれてきたということは、必ず死を迎えなければならない」という道理が明らかになるのです。

新型コロナは私たちに多くのことを問いかけているのではないでしょうか。必ず死する身である私たちが、今、生きているということは驚くべき事であるということです。私どもは、生きていることにどれだけ感動しているでしょうか。そして、コロナで何事も簡略化することが広がっていますが、簡略化してはいけないことまで簡略化してはいないでしょうか。

コロナ感染は今年も続くと考えますが、本当に大切にすべきことは何であるか。親鸞聖人の明らかにされたお念仏の教えを通じて、「本当に大事なこと」はどのようなことかを明らかにできる一年になるとよいと考えます。

令和3年10月のご挨拶

「悲しみ」

 日に日に秋を感じる季節となりました。皆様にはお元気でお過ごしのことと存じます。コロナの感染防止に追われている間に、今年もあと3ヶ月足らずとなりました。時の流れの速さに驚いています。

 さて人生の中で、いろいろな喜びに出遇う一方で、深い悲しみにも出遇います。喜びも大切ですが「悲しみ」は人生を深め、人生のあり方を問うてくれるものではないでしょうか。

 広辞苑で「悲」という字を調べますと、「非」と「心」から成り立っている字で、-胸が張り裂ける痛みを伴う悲しみ-と示されています。

 悲しみを感じるのは、一番人間的な感情ではないかと私は考えています。そして悲しみを通じて、気づくことがあると思います。一番身近な悲しみは、大切な人を亡くした時でしょう。その悲しみについて、宮城顗先生は「悲しみの大きさは、その人から頂いたことの大きさに比例する」とおっしゃっています。また、喪失感から起こる悲しみもあるでしょう。その悲しみを通じて、はじめてその人の存在の大きさに気付いたと言うことがあると思います。

 また、浅田正作さんの《回心えしん》という詩があります。 

 『自分が可愛い ただそれだけのことで 生きていた

  それが 深い悲しみとなったとき ちがった世界が 

  ひらけてきた』

 このように同じ「悲しみ」でも、自分のあり方を「悲しむ」ということがあると思います。その悲しみは、人間としてのあり方を問われたときではないかと感じます。どこまでも

自己中心の私自身に対して、如来は「大悲」の心をもって「南無阿弥陀仏」を名告り、「本当に自分は正しいか」と常に問い続けて下さっているのです。clip_image002