今月のご挨拶」カテゴリーアーカイブ

令和元年9月のご挨拶

「実りの秋」

 朝夕はずいぶんと気温が下がり、秋風を感じる季節になりました。皆さんのお住まいの地域ではお変わりはありませんか。先日からの大雨による災害を受けられた方に、心からお見舞いを申し上げます。

 さて、新旭町の田園地帯を散歩していると、早くも稲の刈り取りが行われています。太陽の光をいっぱい浴びて黄金色に実った稲穂は、その重みで頭を下げているのです。「実るほど頭を垂れる稲穂かな」という句を実感します。

 また、相田みつをさんの詩には

  「どんな雑草でも 時期がくれば 

   だまって 自分の花を咲かせ  自分の実をつける」

という言葉があります。これを読んだときに感じることは、どんな雑草でも花を咲かせ実をつけるのなら、一体自分はどんな花を咲かせ、実をつければいいのかということです。皆さんはどのように感じられますか。自分の花を咲かせるということはどんなことだろう。また、自分の実をつけるというけれども、人生における「結実」とは何を指すのだろうと考えるのです。六十歳半ばの私にとっては、この詩が問いかけてくることになかなか応えられないでいます。

 先日、因果について講義を受ける機会がありました。講師の先生は、因果の関係について「種を蒔いたからといって必ず実がなるとは限らない。しかし、実がなっているということは、必ず種が蒔かれたということである」と述べられました。

 いよいよ「実りの秋」です。果物やお米、野菜がおいしい季節になります。実がなるということは、種を蒔き世話をされる人がいるということです。ブドウやナシを頂くことができるということは、遠方より送って下さる方がいるということです。「因」を尋ねてみれば、本当に有難いことばかりであるのです。結果だけに目を奪われると、損得しか見えなります。私も仏法のご縁を頂き、実り多き日々を送らせて頂きたいと感じます。

image

令和元年8月のご挨拶

「仲よくする」

 日本列島が燃えています。連日の猛暑に皆様はいかがお過ごしですか。あまりの暑さに体調など崩されていませんか。くれぐれもご自愛下さいますよう念じております。

 さて、即得寺では例年通り7月20日~26日まで「和讃講」(子ども会)を実施しました。朝7時45分から9時までの時間ですが、小学生が本堂に集まり、正信偈の練習、歌やゲ-ム、夏の宿題に取り組んでいます。「和讃講」ではまず始めに「ちかい」をみんなで唱和します。内容は3つで、三帰依をやさしく子ども向けに作られたものです。内容は次の通りです。

 ・わたくしたちは ほとけの子どもになります。

 ・わたくしたちは 正しいおしえをききます。

 ・わたくしたちは みんな仲よくいたします。 

 この「ちかい」を参加した小学生とともに毎日、唱和しています。昨年までは疑問に思わなかったことですが、ふと、私自身が「みんな仲よくいたします」と声に出すと、「仲よくする」とはどうすることかと疑問が湧いてきたのです。皆さんはどのように感じられますか。

 仲よくしたいと思っていても、本当に仲よく出来ているかを問われると、出来ていない現実があります。本当は仲よくしたいと思っていても、何か心の隔たりを感じるのです。その時に思うことは、「相手がもう少し私のことを理解してくれれば」「あの人がもう少し協力してくれれば」と仲よく出来ない理由は相手にあると考えるのです。しかし、仏教では「怨憎会苦」という言葉があり、仲よく出来ない原因は、私自身が人を嫌うという心があるからだと示しているのです。

 しかし、「みんな仲よくいたします」ということは、嫌わないということでは解決しないのです。老若男女と言いますが、年齢や性別、職業などを越えて全ての人が仲よくしたいという願いを持っていても、なかなか実現できないのです。仲よくしたいという心には、具体的には「人を大切にしたい」ということがあるはずです。自分と同じ「いのち」を生きていることの大切さに気付くことでしょう。親だから大切なのですが、親であるまえに一人の人間として大切だと考えているか。子どもだから大切には違いないが、一人の人間として接しているかが問われるのでしょう。

 みんな仲よくしてほしいというこの「ちかいのことば」は、仏さまから私たちに向けられた「願い」なのです。この「願い」をしっかりと受け止めたいです。

令和元年7月のご挨拶

「自由」

 先日、本屋さんに立ち寄り本棚に目をやると、新書の本の帯に『「考える」ことで人は初めて自由になれる』という言葉を目にしました。この時、私は「自由」とはをどんなことをいうのかという疑問が起こりました。日頃、自由だとか、不自由だとか余り考えたことがなかったため、改めて「自由になれる」という言葉を目にしたとき、戸惑い半分、疑問半分の気持ちになりました。 さて、広辞苑では【自由】について、①心のままであること。思う通り。自在。②他からの拘束・束縛・強制・支配を受けないこと。と示されてあります。 さて、「毎日、自由自在に生活をしていますか」と問われると、「これさえなかったら」「これがあれば」もっと自由になれるはずだと考えている自分がいるのです。「自由」とは一体どのようなことでしょうか。仮に「不自由」だと感じているとするなら、「不自由」を作り出している原因は何かを考えなければなりません。明らかなことは、自分を縛っている何かが存在するということでしょう。広辞苑では他からの拘束や束縛と示されていますが、身体的に自由を奪われるということは勿論ですが、特に精神的に自分を縛っているものは何かを考えてみたいと思います。不自由さを感じる場合、自分の置かれている立場や状況によって束縛感を感じるのではないでしょうか。私たちは、それぞれの立場や役割、他との関係、常識と言われること、世間体などを絶えず意識して生活しているはずです。その時々で、その関係や考えに基づく行動に自由を感じたり不自由を感じたりしているのではないでしょうか。その意味では本当に他からのはたらきかけによって不自由が作り出されると考えていますが、実は不自由を作り出しているのは、私自身の考えではないでしょうか。自分を縛り付けているものが、自分以外にあると考えていましたが、実は自分自身が縛っていることに気付かないことには「真の自由」はないと考えます。また、本当の自由とは、自分の勝手気ままに生きることではなく、「他者と共存」することによって生まれるものではないでしょうか。

 自由を実現するということは自分が感じている「不自由」を取り除くことではないのでしょう。今あるがままの自分が、もうすでに大きなはたらきの中に生かされていることに気付くことではないでしょうか。自分を支えている大きなはたらきに出遇うと、自在に生かされている「いのち」の中に「自由」を実感するのでしょう。のです。皆さんにとっては「自由」とはどんなことだと考えますか。

令和元年6月のご挨拶

先日、本山主催の児童教化の研修会に若院とともに参加しました。その研修会ではゲ-ムや絵本の読み聞かせなど、お寺での「子ども会活動」の運営について学べる研修会でした。即得寺では毎年夏休みには「和讃講」という名称で「子ども会活動」を行っており、何か新しい情報や活動のヒントになることを学びたいと思い参加しました。

 研修会で印象に残ったことは「絵本の読み聞かせ」についてです。最近書店や図書館に行くと沢山の絵本が並べられてますが、なかなか手にとって中を見る機会が少ないと思います。その理由は絵本は子どもが読む本という先入観があるからではないでしょうか。今回の研修会では絵本の世界の広さや深さを改めて学ぶことができました。

 研修会では、絵本を読み聞かせすることにより、①子どもと親しくなる。 ②絵本を通じて子どもが芸術作品に出会える。 ③言葉を通じて世界が広がる。④あたたかい体験として心に残る。 ⑤絵本の世界に入り込む。など絵本の素晴らしさについて学ぶことができました。絵本は全て子ども向けだと思っていましたが、中には大人向けのものもあり、そこから何を感じるかということが大切だと思いました。講師の先生が絵本を紹介しながら、実際に読み聞かせを行って下さいました。お話が始まると物語の世界に引き込まれ、終わったときは心があたたかくなりました。皆さんも、絵本を手にとって読んでみてはどうでしょう。日頃と違った心の世界が広がり、ワクワクするのではないでしょうか。66歳になった私も、この時だけ少年のような心になれるのですから。

 自分の子ども時代や、一緒に読んだ人、ともに過ごした時間がふと蘇ることもあります。ともに聞いた人々と格別な親しみを感じる点は、「聞法」に通じるものかもしれません。

平成31年4月のご挨拶

「新元号」

 4月1日の午前11時30分過ぎに新元号が発表されました。当日のテレビは朝から新元号の報道一色で、私も今か今かと発表を待ちました。テレビで発表を聞いたときは、ピンときませんでしたが、「令和」(れいわ)の文字を何回も目にすると慣れてきて、発表から三日目にして違和感がなくなりました。そういえば、「平成」に変わった時も、今まで呼び慣れていた「昭和」でなくなったことへの違和感を覚えたものでした。

 さて、元号が新しくなることで、何か新しい変化が起こることを誰もが期待します。でも実際には、元号が変わったからといって世の中が変わるわけではありません。新しい元号が決まり、それを口にしたときに、新鮮な感じを持つ自分がいるのでしょう。それは丁度、大晦日が終わり元旦を迎えたときと似ていると感じます。新しい年を迎えたといっても、昨日と大きな変化はないのですが、時間の経過の中に非日常を感じるのでしょう。その意味では、30年ぶりの元号改正は時代の流れを感じさせる出来事であり、同時に私たちが心機一転のチャンスを得る出来事かも知れません。

 即得寺では、毎月一日は「おついたち」と呼んで、早朝より本堂にお参りされる習慣があります。毎月お参りされる方は昔ほど多くはありませんが、毎月の一日は、住職として緊張し、本堂の灯明を点灯しています。この「おついたち参り」も新しい月を迎えられたことへの感謝と、心新たに過ごしたいという思いからお参りされていると感じます。

 東井義雄先生の詩を紹介します。

 「目がさめてみたら」

 目がさめてみたら 生きていた  死なずに 生きていた

生きるための一切の努力をなげすてて      眠りこけていたわたしであったのに

目がさめてみたら 生きていた     劫初以来  一度もなかった  

まっさらな朝のどまんなかに 生きていた

 東井義雄先生の詩を読んでいると、新しい一日、新しい月、新しい時代を賜るということは、感動することだと教えられます。

平成31年3月のご挨拶

「幸せとは」

 三寒四温と申しますが、日ごとに春が近づいているのを感じるこの頃です。皆様にはお変わりありませんでしょうか。テレビの天気予報では、暖冬の影響で今年の桜の開花は例年よりも一週間程早くなるとのことです。今月末から来月にかけて各地で花便りが聞かれることでしょう。

 さて、私たち誰もが一番願っていることは「幸せになる」ということでしょう。どんな人でも、幸せを求め、幸せになるために努力を重ねているのではないでしょうか。しかし、不思議なことに、どうすれば幸せになるかが分からないのです。人間はいろいろな技術や知識を手にすることによって、生活を向上させてきました。もうすぐ平成という時代が終わりますが、私が生まれた昭和の20年代と比べれば、今は大変豊かな時代だといえるでしょう。皆さんの生活様式も50年前や平成が始まった30年前と比較すれば大きく変化していると思います。しかし、物は豊かになり、便利な社会になったが、本当に幸せになったかが問われるのです。豊かで便利になった分だけ、何か大切なものを失ったような気がします。

 ある雑誌によると、世界幸福度はブ-タン王国が世界178カ国中、第8位だそうです。日本は90位です。経済力を示すGDPで比較してみると、日本は第3位で、ブ-タン王国は167位です。私たちは何か物や条件が整えば幸せが実現できると思い込んでいますが、ブ-タンの例を見るとそうではないのでしょう。「幸せ」とは、豊かであるかどうかではなく、本当に満足する生活ができているかどうかではないでしょうか。

 相田みつをさんの詩に「しあわせは いつも じぶんのこころが きめる」とあります。

本当に満足するということは、十分いただいておりますということです。毎日の生活を通じて、いただいていることの大きさに出遇うことでしょう。本願念仏のはたらきに出遇うと、幸せとは決して自分の思い通りになることではなく、現にいただいていること(御恩)の大きさに気付くことだと知らされるのです。人と比較したり自分の生活に足りない物を探していても満足は得られません。念仏の呼び声とともに、遇うべき人、遇うべきことに出遇い続ける歩みの中にこそ、「喜び」がいただけることでしょう。

平成31年1月のご挨拶

「実りのある一年を」

 あけまして おめでとうございます。昨年は何かとお世話になり、感謝申し上げます。今年もよろしくお願いいたします。

 さて、昨年は皆様はどのような一年を過ごされたでしょうか。私にとっては平成30年という年は生涯にわたって忘れられない年となりました。その理由は、昨年10月に宗祖親鸞聖人750回御遠忌を皆さまと共にお勤めさせて頂いたことです。また、5月に次女に第二子が、9月に長女に第二子が誕生し元気に育ってくれています。振り返れば、その一つ一つが皆さんに支えられ、多くの方々の協力によって成り立っていることを改めて感じます。

 さて新年を迎えると、「今年も良い年でありますように」と願わずにはおれませんが、「良い」とはどんなことでしょうか。自分の思いが実現することでしょうか。一般には自分の思いが実現し、いろいろなことが上手くいくことであると考えますが、本当に思い通りになることが「良いこと」であるかどうかは確かめる必要があると思います。現実の生活ではなかなか思い通りにはならず、将来のことを考えると不安はつきません。私たちは不安と迷いの中に生きています。しかしその不安や迷いを通してこそ、仏縁に出遇わせて頂くということがあると思います。親鸞聖人の『高僧和讃』には

罪障功徳の体となる  こおりとみずのごとくにて

   こおりおおきにみずおおし  さわりおおきに徳おおし

 と示されてあります。冷たい氷が多い分だけ、豊かな水があふれる。不安や迷いこそが自分自身のあり方を問い返してくれ、豊かさへと導いてくれる・・・・・。毎日の生活を通じて、常に「自分の思い通りにしたい」という自分と、「思い通りにならない現実」をどう受け止めるかが課題ですが、思い通りにならない現実から生まれてくるものを大切にできる一年でありたいと思います。

平成30年9月のご挨拶

災 害

 「災害は忘れた頃にやってくる」ということわざがあります。しかし私がここ数年間で感じるのは、「忘れた頃にやってくる」どころか「忘れる間もなくやって来る」ということです。振り返ってみると今年の6月末から7月初旬にかけての西日本豪雨災害。8月23日から24日にかけて台風20号での被害。さらに9月4日には台風21号の被害。やっと台風が収まったと思うと9月6日に北海道で震度7の大地震が起こっております。被災された方々には心からお見舞いを申し上げます。

 さて、大きな自然災害が続く中で感じることは、私たちの生活基盤のもろさです。特に今回の北海道地震の場合は、全道の停電というかつてない出来事が起こりました。被災された方々はどんなに不安を感じられたでしょうか。停電の原因はいくつかの条件が重なり、結果として発電所の機能が低下したためです。この大規模停電で知らされたことは、私たちの生活は「豊かで便利」を求めていますが、電力がなくなれば、一瞬のうちにその生活が成り立たなくなるということです。

 今回の北海道地震の報道を通じて、「本当の豊かさとは何か」を改めて問われることです。そして私が、これだけは確かであると生活をしていますが、その「基盤は確かなことか」と問い返してくれているのでしょう。

 親鸞聖人 85才の時の和讃(正像末和讃)には

    「弥陀の本願信ずべし  本願信ずるひとはみな

       摂取不捨の利益にて  無上覚をばさとるなり」

 と阿弥陀様のおはたらきを詠んで下さっています。私たちがどんな状況であっても、阿弥陀仏は決して見捨てないぞとはたらき続けて下さっています。

 今回の台風や水害、地震で被災された方々が、一日も早く復旧、復興をされることを念じております。

平成30年7月のご挨拶

ウォ-キング

 今年の4月からウォ-キングを始めました。無精な私の性格ですので、三日坊主(文字どおり坊主です)で終わらないために、人にはあまり言わないようにしていました。私は毎朝6時に大鐘を撞いてから、1時間余り(8000歩)を歩いています。先日北海道のお寺を訪問したときに、近くの御住職も毎朝約1時間30分(12000歩)を歩いているとお話しになっており、意気投合して盛り上がりました。その方は、万歩計(携帯電話)を身につけて歩くのだそうです。必ず毎日記録を付けて、自己記録を更新することが楽しみになっているとおっしゃっていました。お話を聞いていると、同じだなぁと感じました。私も今回歩き始めたときに、電池が切れていた万歩計に新しい電池を入れ、自分の年齢や体重、歩幅をセットし直して始めました。以前、歩き始めたときは続かなかったために、「今回も2週間ぐらい歩けばいいや」との思いで始めました。ただ、今回心掛けたのは、記録を付けることです。たしかに記録を付けると、歩いたかどうかがはっきりします。私は朝、血圧を測るように主治医に言われていますので、血圧手帳の備考欄に、歩いた日は歩数を記録し、歩かなかった日は言い訳を記入します。記録を付けるということは、当たり前のことですが新しい発見があります。何を発見するかというと、言い訳や数字を通じて毎日の自分の行動や思いがはっきりと表れるのです。最初は幸い晴れた日が続き、日に日に歩数が伸びていきました。約30分のウォ-キングが少しずつ距離を伸ばし、歩く時間も40分から50分と伸ばすことができるようになりました。しっかり歩けた日は、記録を付ける時に充実感を味わうこができ、できなかったときは、言い訳をしている自分に向き合えるのです。まさに血圧の記録手帳が陰の力となって、私の意欲を引き出してくれています。

 面白いもので、誰かにやらされていることであれば、いつかは止めてやろうと思うのですが、止めたいという気持ちが起こらないまま、今日まで続いています。同時に毎日の日課になったようで、大鐘を撞くと自然に足が風車村の方向に向いています。お陰で血圧も安定しています。

 私のウォ-キングは今回はいつまで続くのか分かりませんが、楽しんで歩きたいものです。最近では何人かのお仲間とも散歩コ-スですれ違うと、「おはようございます」と挨拶を交わす機会が増えています。今では、そろそろ向こうからあの人とすれ違う時間だなということも、楽しみの一つになっています。

平成30年5月のご挨拶

ありのままの「いのち」

 先日、一冊の本を手にする機会がありました。「お誕生日おめでとう、生まれてくれてありがとう」という題の本(真城義麿著)です。その中で、『私が人間に、そして「私」に生まれた意味はどこにあるのでしょうか。』という問いが投げかけられていました。私たちは、人間に生まれたことには違いありませんが、さらに重要なことは「自分」に生まれたということにあると思います。

 今から二千五百年前にインドの北部(現在のインドとネパールの国境付近)で、釈迦という人が生まれ、仏教を説かれました。釈迦に関する説話は数多く残っておりますが、特に誕生に関して印象に残る説話があります。釈迦は誕生の際、七歩あるいた後に、「天上天下唯我独尊」と声を発したと伝えられています。誕生直後の赤ちゃんが、歩き、言葉を発することは現実ではあり得ないことでしょう。しかし、この説話が私たちに伝えている意味は何であるかを考えるべきです。 「天上」とは、自分を取り巻く状況が、比較的自分に都合良く、思い通りに進んでいる状況のことを指します。逆に「天下」とは、なぜ自分だけがこんな辛い目に遭うのだろうかと思ってしまう、つまり思い通りに進まない状態を言います。「天上・天下」とは「どんな状況であっても、どんな境遇になっても」ということを指しています。

 「唯我」とは、存在しているどの一人も、かけがえのない人であることを表しています。誰とも代わることのできない存在なのです。私たち一人ひとりが、他の人と代わることのできない、代わりがきかない人間なのです。

 「独尊」の「独」は、何も加えなくとも「それ自身で」という意味です。成績や所得や地位が高いかどうかではなく、その人がその人として生きていることが尊いということです。身につけた技能や能力が尊いというのではありません。

 私たちは、自分のありのままの「いのち」の尊さに改めて目覚めるとともに、支え合い、尊び合う、互いの「いのち」に「ありがとう」と感謝し合いたいものです。